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坂東守の激白録(2)

坂東 守

 

目次

 

はじめに

1 夕張にて

2 札幌での小学校時代

3 いじめを受けた中学校と灰色の高校生活

4 左翼運動へ

5 大阪へ~大学入学

6 工場での左翼運動。

7 米屋の丁稚時代

8 司法書士受験

9 司法書士という仕事

10 両親のこと。自分の生

11 出会い

12 わが師

13 私の人生観

14 私の国家観

おわりに

 

1 夕張にて

 

昭和26年に夕張市で生まれました。炭鉱の最盛期です。父は警察官で、駐在所を転々としており、5歳まで夕張にいました。

父は明治44年生まれ。2012年12月に102歳で天寿をまっとうしました。戦前から警察官をやっていて、函館の水上署(今の西署)にいたときは、ロシア人(親父は「露助」と言っていました)が入港してくるとき、臨検をやっていました。

おふくろと親父のなれそめは、昔はみんなそうだったんでしょうけども、おじおばの紹介で夕張で見合いをして、ほとんど下ばっかり向いて、顔も見ないで、言われるがままに一緒になったということです。

 

その後、札幌に出て、18歳、高校3年生までいました。

私にとっての故郷はいまだに夕張なんですね。4歳ぐらいのときからの記憶があります。

親父が夕張本署に勤務していたときもありました。鹿ノ谷の上のほうに警察官舎があって、四、五歳の頃をすごしました。裏が山になっていました。

キラキラ輝いている思い出があります。昔は、共同体みたいなもので、炭鉱は特にそういう感じが強かったんじゃないでしょうか。晩御飯を、よその子が勝手に一緒に座って食べていたりしました。

男ばかりの三人兄弟でした。兄は戦前生まれで現在75歳です。戦後、親父がシベリア抑留から帰ってきて、二つ上の兄と私が生まれました。

丸いちゃぶ台があって、家族五人で一緒にご飯を食べました。

とにかく楽しかったのは、自然の中でした。裏の山に入っていって、ザリガニを採ったり、ヤマブドウ、グズベリをとって食べたり。一種の冒険ですよね。冬になると、裏山でスキーをやったりしました。

 

この頃、初恋をしました。男兄弟ばっかりで、女性はおふくろしかいませんでした。いとこには女の子がいました。そのいとこ、よしこちゃんのことが、四歳か五歳の子ども心に、好きでした。小さいから一緒に寝かされるんですね。どきどきした覚えがあります。

親父にしてもおふくろにしても、あふれんばかりの情深い人間でした。愛情表現の仕方としては、「かわいい、かわいい」と言うんじゃなくてなぐられたりもします。その愛情表現の仕方は、私も受け継いでいますね。私は常に愛の対象を求めるんです。犬であったり、従業員であったり。今でも愛情過多であると、自分で認識しています。

小学校の一、二年の頃も輝いていました。当時の一年が、今の十年に値するような、内容の深い、充実した、愛にあふれる時代でした。当時、親父が警察官だったおかげで、石炭などなんでもタダでした。映画館は親父が敬礼すると、入れてくれました。片岡千恵蔵など、ほとんど時代劇でしたね。胸をわくわくさせて観ていました。

 

もっぱら親父が親戚づきあいをしました。母のきょうだいが夕張にいっぱいいて、時々集まるわけですね。おじとおばが高橋写真館をやっていて、親戚が二十名くらいそこに集まりました。正月だったら、臼と杵で餅をついて、宴会が始まります。手拍子で歌ったり、春日八郎の「お富さん」をよく親父は歌っていました。子どもも一緒に踊りました。親父は、飲んでるときと飲んでないときの落差が非常に大きかったですね。飲むと明るくて、おもしろおかしく戦争のことを一晩中話してました。悲惨なシベリアの体験なのにおもしろい話にしてしまうのですから、大変な話術を持っていたのではないかと思います。話の中心になっているのは常に、親父でした。子ども心に自慢でした。

おじさんおばさんたちには、「まもちゃんよく来たね」などと言って、かわいがってもらいました。愛情いっぱいに育てられました。三~五歳の頃に受けた愛情が、のちのちの人格形成に及ぼす影響は非常に大きいと思います。素直に、頭でなく感覚で愛情を受け取れるので、受けた愛情は終生消えません。

親父は普段は厳格そのものでした。お酒が好きで、飲むときは二升飲んでも顔色一つ変えません。飲めば飲むほど頭が冴えてくるようです。だんだん顔が青くなってきて、雄弁が止まらなくなります。

徳利を鉄瓶で温めてて、適温になると、うぐいすの鳴き声のようなピーという音が鳴っていました。いまだに記憶に残っていますね。

 

親父とまともに、普通に話ができるようになったのは、私が四十歳を過ぎてからです。ちなみに私は、親父が四十歳になってからの子どもです。シベリアに3年いて、気も荒くれて、昭和二十二、三年ごろに帰ってきて、兄が昭和二十四年に生まれています。

親父はとにかく怖くて、会話自体がありませんでした。ご飯を食べるときは正座をして、余計なことはしゃべるなという感じでした。

ただ、情の深い親父でした。酒飲むといい気分になってきて、「守、来い」と言われます。頬ずりをしてくれます。ばりばりのひげが痛くて嫌でした。

しんねりむっつりと、晩酌をしていましたね。コップ酒を飲んでいるのは見たことがありません。燗してちびちびと難しい顔をして、たまに機嫌のいいときもありました。みんなが集まるときは、親父自身も解放され楽しくなるんですね。

外から帰ってきて、親父が晩酌しているとき、おふくろにまず、「父さん、今は、機嫌いいかい?」と聞きました。「今は機嫌いいよ」というときもあれば、「機嫌悪いからひっこんでなさい」というときもありました。

物ごころがついてからは、説教をされました。これが長いんですね。正座をして、一~二時間続き、最後に格言で結論づけるんです。「守、飛ぶ鳥跡を濁さずだぞ。このことを忘れるなよ」といった感じです。そのくせが私にうつって、息子に説教するときは格言で終わります。

 

父は旭川出身で、旭川商業の二期生でした。一期生にはスタルヒンがいたそうです。「ブルペンで投げてるのを何回も見たけれど、球が見えなかった。すごいやつだった」と言っていました。今で言うと、160キロ以上は出ていたのではないでしょうか。

母は江差の高橋という名家のお嬢様でした。蔵があって、敷地は一町角もあり、松前藩の家来の末裔です。江差の女学校で裁縫を習って、自分で着物も仕立てていました。きょうだいは、十五人か十六人いました。おかげで私にはいとこが何十人もいます。今、「いとこ会」というものを作っていて、私が幹事長をやっています。

江差からおじさんが来ると、手土産に五勝手屋羊羹を持ってきてくれました。当時は甘いものがあまりなくて、あれがおいしくて楽しみでしたね。今は、夕張と言えばメロンですが、当時は食べた記憶がありませんね。夕張にいた頃、夕張メロンのことは知りませんでした。

夕張にいる間、父は警察官を辞めようと思っていました。商業高校を出て、そろばんが得意で、いずれ商売をやりたいと考えていたようです。

夕張にいる間に、独立する下準備を進めていたようです。札幌の北32条東1丁目に土地を手に入れていました。

 

時々、札幌へ汽車で連れて行かれました。両親と、二番目の兄と私が一緒でした。昭和三十一年か三十二年頃だったと思いますが、すごいなと思いました。ビルヂングと言いましたが、一番高い建物は八~十階建てで、丸井、三越、五番館がありました。金一館という、呉服・小間物屋が丸井の横にあり、屋上に遊園地があり、乗り物に乗るのが楽しみでした。その頃から女の人に興味があったのか、マネキンのスカートをめくったりしていました。テレビ塔もありました。お子様ランチに日の丸が立っていましたね。デパートに行くと、エスカレーターが珍しくて、別世界でした。

夕張に帰ったとき、暗くて、夕張に抜けるトンネルを過ぎると、大都会でした。炭住(炭鉱住宅)は、みんな裸電球で、大都会みたいに見えるんです。きれいだな、夕張ってすごいなと思いました。あの美しさは、今でも記憶に残っています。