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坂東守の激白録(3)

坂東 守

 

目次

 

はじめに
1 夕張にて
2 札幌での小学校時代
3 いじめを受けた中学校と灰色の高校生活
4 左翼運動へ
5 大阪へ~大学入学
6 工場での左翼運動。
7 米屋の丁稚時代
8 司法書士受験
9 司法書士という仕事
10両親のこと。自分の生
11出会い
12わが師
13私の人生観
14私の国家観
おわりに

 

3 いじめを受けた中学校と灰色の高校生活

 

中学二年のときに転機が訪れました。いじめがあって、対人恐怖症になりました。それまで、私の生は輝いていました。対人恐怖症は、現在でも続いています。年の功で人に悟らせない術を、今では身につけています。それでないと、この商売はやっていけません。
ただの対人恐怖症ならまだいいのですが、それが高じてしまい、表情がうまく作れなくなってしまいました。表情などを通じて、お互いに意志疎通をするものですが、それができなくなってしまったのです。今でも続いています。
小学生のときから中学一年、二年くらいまでは、優等生だったんです。毎日が楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。中学ではワルが、クラスのヘゲモニーを握っていました。それまでは常に自分が中心だったのに、だんだん疎外されていったんです。ワルは、優等生とは一線を画していました。私が近づいていっても受け入れないんです。クラスの中で疎外感を感じるようになっていきました。ある種のいじめだったんだと思います。
肉体的には頑健で、全道陸上大会でも優秀な成績を収めていました。ワルとけんかしても負けなかったと思いますが、けんかをしたこともなかったんです。今から思うと、いじめをした人間を一人一人トイレに呼びだして、ぶんなぐってしまえばよかったんです。いじめとは、力と力の関係ですから、そうしていれば、その後の暗い高校時代はなかったのではないでしょうか。
冬、教室にストーブがあって、みんなあたりにいくんです。でも壁を作って、私にあたらせないんです。陰湿ないじめですね。いじめのなかでも、無視、シカトが一番酷なものです。私を徹底的に、ワルが無視していました。
そのへんからおかしくなってきたんです。肉体的にいじめられたことはありませんでした。力には力で対抗しなければならなかったんです。でも当時の私は、みんな仲間だと思っていたので、ワルのルールがわかりませんでした。
弱い人間がいじめられます。そんなとき、弱い人間なりに対抗したほうがいいのです。
子どもの世界にもルールがあります。ある意味の義侠心があって、降参したらいじめをやめていましたが、今は死にまで追いやってしまいます。
自分がどのように知力、体力で対抗していくか、いじめられている人間は考えるべきです。
北高に入ってから高一くらいまでは、世間並みの成績だったのですが、世間並みの成績では、自分は劣等生だと思っていました。自分の努力が足りなかったんです。ほとんど勉強しませんでした。今まで、勉強しなくても一番だったんです。でも北高では、勉強しないとだめでした。
だんだん成績が下がってきました。運動が好きで、陸上と柔道のクラブに入っていました。根底には、親の期待に応えたいという気持ちがあったんです。どこかで、今のままではだめだという気持ちを常に持っていました。
成績を上げるのは簡単です。原因と結果なのです。努力して勉強すればよかったんです。国語と英語はそれなりでした。理系はだめでした。一度遅れてしまうと、理解できなくなりました。当時、家庭教師というものはありました。両親に「家庭教師をつけて勉強してみないか」と言われました。それをかたくなに断りました。「自分は一人でもやりさえすればできるんだ」と言う自負心ですかね。でもやらなかったから結果は変わらないですね。
学歴は人間の価値じゃないとわかっていますが、今、世で名を成している人の学歴に対して、世間の評価は厳然としてあります。どんなに偉そうなことを言っても、学歴で挫折した人間は、どこかでひきずっています。
高校時代は、一言で言えば、灰色でした。特に、顔面神経痛がひどくなりました。まともに人と会話できなくなったんです。鬱もひどくなってきました。運動をやっているときは、会話する必要もなくてよかったです。

 

4 左翼運動へ

 

親に恵まれ、家族に恵まれ、対人関係において非常に葛藤を抱えながら、逆に葛藤があったおかげで、自分の内面に対する問いかけをしていました。もともとそういう素養があったので、高校後半からは執拗に問いかけていました。そこに左翼思想が入ってきたんです。
全共闘など、左翼であることがひとつのステイタスという時代です。普通の社会性とは、私の場合、違いました。悪く言えば、ええかっこしいなんです。
ヘルメット、アジ演説、かっこよかったです。「北高の良識」という言葉がありました。自由放任です。一人一人が自立した人間だから、自分の良識に従って生きていきなさい、ということでした。後から思うと、素晴らしいことです。けれど左翼から見ると、良識を破壊しなければ、新しいものは生まれないと考えました。
高三の文化祭に、ゲバ棒を持った連中がなだれこんできました。10・21反戦デーです。授業をボイコットし、校門でアジテーションをしました。そのときの先生はお茶の水大を出た五十歳くらいの女の先生でした。私は卒業式の粉砕闘争を計画していました。
既存の秩序を破壊し、破壊からすべてが生まれるんだと考えていました。左翼特有の考え方で、破壊後のビジョンは何もないんです。
これが先生の耳に入りました。
高校三年のときは、ほとんど学校へ行っていません。卒業するのも大変でした。北大に北高の全共闘のたまり場があって、しょっちゅう出入りしていました。成績は下から二番目でした。
対人恐怖症はないことはなかったものの、一種の同志というつながりがありました。ふかしているだけでしたが、タバコも覚えました。長髪でした。
根底において、左翼思想とはまったく相反する日本の伝統、人間の誠意に、心の中で比重を置いている部分があったので、落ちつきませんでした。義務感ばかりです。人民のためにすべてを犠牲にする。人間の解放が自分の解放になる。理解はできましたが、捕えられませんでした。結果的に、捕えられなくてよかったと思います。
卒業式の粉砕闘争に出る直前になって、先生と個人面談をしました。
「坂東君、卒業式出ないでちょうだい」
私のことを思って言ってくれたんです。
「私の弟が東京で、清水建設の部長をやってるから、そこに行きなさい」
そう言って、先生は泣くんです。
教師は雲の上の存在で、自分の土俵まで降りてきて話してくれるのは、この先生が初めてでした。びっくりしました。この先生の言うことを聞かなくちゃと思いました。
卒業のための試験がありました。物理と化学が赤点で、追試がありました。化学は通ったんですが、物理は三回追試を受けました。生徒は三人くらいになりました。それでも、一〇点、二〇点という赤点でした。一回も授業に出ていないんですから当然です。
やさしい先生でした。思い上がっていた私は、授業中に先生を指さして、
「お前は体制側の人間じゃないか。今、ベトナム戦争をやっているのに、授業をやってるなんて」
などと言いましたが、先生はにこにこ笑って受け流していました。
30点以上取ればよかったのにだめで、最後に、
「もう受けなくていいから、校門の雪かきやってこい」
と言われ、卒業させてもらいました。

卒業式に出ないで、清水建設に行きました。いわゆるスーパーゼネコンです。三菱、鹿島建設、清水建設のJV、共同企業体による、モノレール物流センターの現場に行かされ、資材課のデスクに座っていましたが、何もすることがないんです。仕事をしたいんですが、何も教えてくれません。下請けの業者がぺこぺこしてきます。
二、三か月で嫌になってしまい、置き手紙を置いて逃げ出しました。常識をわきまえず、先生の顔をつぶしてしまいました。お金は何千円かしかありませんでした。
岡林信康の「山谷ブルース」という歌がありますが、左翼思想があったこともあり、山谷に行けばなんとかなるんじゃないかと思いました。南千住の泪橋に夜行って、勉強堂というドヤに泊まりました。個室一泊800円でした。個室でなければ400円です。まず、臭いと思いました。異様なすえた臭いがしたんです。腹が減っていて、おでん屋に入りました。
次の日から区の福祉センターへ行きました。みんなについて行ったんです。そこに手配師がいて、早く行かないといい仕事にありつけないということが、後からわかりました。トラックに乗り、千葉の飯場ヘ行きました。一泊8000円になります。そこで一か月仕事をしました。毎週違う仕事でした。
船着き場で沖仲士として、船に肥料を積み込んだりしていました。パレットをクレーンで運んで来て、ドンと落とすんです。パレットから六十キロの肥料や飼料を下ろして積み込みます。ある日、船の中で働いていました。寝不足でぼーっとしていたんです。ドンと落ちる寸前、その下にいたんです。「危ない!」という声が聞こえて、ぱっとよけました。数センチの差で下敷きになるところでした。運動神経だけは良かったんです。声が聞こえる前から、とっさに逃げたんだと思います。聞こえてからでは間に合いませんでした。
天、ご先祖様が、「お前はまだやることがある」と、生を長らえさせてくれたのでしょう。
次は、日清製粉の肥料工場でした。何十キロもの肥料袋を積む仕事です。ちゃんと積まないと崩れてしまいます。何十メートルもの高さになるんです。日雇い連中は、いいかげんに積んだりするんです。
昼、弁当を食べていたら、誰かが、
「山来た。山来た。山だ。山だ」
と言うんです。これは、「崩れた」という意味です。逃げました。ほんの数センチの差でした。居眠りでもしていたら終わりでした。
山谷には四か月いました。飯場は二段ベッドで、ある朝、下の土方が、
「坂東、こら、表出ろ」
と言うんです。見るとヤッパ(出刃包丁)を持っています。ヤクザだったんでしょう。
「なしたんですか」
と聞くと、
「お前、俺のエロ写真、盗んだだろ」
と言うんです。当時は、局部がそのまま映っている写真は貴重でした。土方はお守りにしてたんです。それが起きたらなかったので、怒ったのです。
「ぼくやってません」
と言いましたが、全然聞いてくれません。しかたないと、上着を手に巻いて、相手と対峙したとき、親方が来ました。親方は絶大な権力を持っていました。私は親方にかわいがられていたんです。
「てめえ、俺の舎弟に何するんだ。俺の顔つぶすのか」
親方は半端でない迫力で言いました。土方はおとなしく引き下がりました。
一番親身になって相談に乗ってくれたのは、流れ者の料理人でした。相談に乗ってくれと言ったわけじゃありませんでしたが、さらしに巻いた包丁を持っていて、
「お前見てたら、あぶなっかしくてしょうがない」
と言っていました。私が子どもだということでしょう。さぞかし親が心配しているだろうと言って、親に手紙を書いてくれました。達筆でした。後から聞くとそれまで音信不通でしたから、親父もおふくろも手紙を読んで、安心したそうです。

 

~続く