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坂東守の激白録(4)

坂東 守

 

目次

 

はじめに
1 夕張にて
2 札幌での小学校時代
3 いじめを受けた中学校と灰色の高校生活
4 左翼運動へ
5 大阪へ~大学入学
6 工場での左翼運動。
7 米屋の丁稚時代
8 司法書士受験
9 司法書士という仕事
10 両親のこと。自分の生
11 出会い
12 わが師
13 私の人生観
14 私の国家観
おわりに

 

5 大阪へ~大学入学

 

山谷はささくれだった世界でした。普通の生活が懐かしくなってきました。大学へ行ってみたいなという、向学心がわいてきました。そこで、自分から親に「大学へ行きたいんです」と、手紙を出したんです。すると、「すぐに戻ってこい」という返事でした。11月くらいになっていたでしょうか。私は5月に19歳になっていました。
家に帰って二日間、安心しきって、もとの自分の部屋で寝ていました。「汽車から降りたら 小さな駅で 迎えてくれる ママとパパ 手を振りながら呼ぶのは 彼の姿なの 思い出のグリーン グラス オブ ホーム」という歌がありますね。ちょうどそんな感じでした。自分の故郷に戻って、とにかく安心して、飯も食わないで二日間部屋で熟睡していました。
多感で、幼くて、純粋で、傷つきやすくて、触れたらばらばらっと崩れるような精神状態を、山谷にいるあいだ持続してきたので、安心しきっていました。あれほど熟睡した経験はありません。
「心を入れ替えたので、予備校に行かせてください」
と親に頼みこんで、桑園の予備校に入りました。でも、根がいいかげんなので、1回か2回しか行きませんでした。当時、パチンコを打つようにして役を作る、雀球というゲームがありました。雀球にはまって、若草というパチンコ屋でそればかりやっていました。満貫賞をもらって部屋に置いておいたら、試験前に親父に見つかって、えらい怒られました。お前は何をやってるんだと。警察官だったから、すぐわかるんですね。
学校から遠ざかって、1年間のブランクがあって、ほとんど勉強しなくて、北海道大学に受かるわけがありません。私立大学を受けることにしました。札幌で試験があったのは、関西大学、立命館大学、同志社大学でした。試験の一週間前になって、さすがの私も、こりゃあまずいなと、思いました。そこで得意の一夜漬けです。一週間はほとんど寝ないで、高校時代の教科書を読みました。試験は得意なんです。どこが出そうなのか勘でわかるんです。最重要点だけを暗記して、試験に臨みました。
受験科目が英語と国語だけでよかったので、関西大学の英文科に合格しました。試験はほとんどできました。同志社大学の哲学科は落ちました。後からわかったんですが、関西大学は、そんなにわるい大学じゃなかったんです。
四十代半ばまで、追いつめられてはじめてやる、という性向がありました。自分は追いつめられないとだめだという自覚がありました。時間があっても、4/5は無為に過ごして、1/5で集中してやるんです。計画的なのは性に合いません。

 

大学に合格して、入学しました。梅田線に乗って、関西大学前で降りて、だらだら坂を上っていくと大学があります。学生は2万人くらいいました。坂の途中に雑種の犬がいて、その犬に会って頭をなでるのが一番の楽しみで、学校に行っていました。1年半学校にいて、授業に出たのは十回くらいでした。
英文科は、クラスの九割が女性でした。大好きな女性ばかりいたんです。クラスに入ると女くさいと思いました。
もう全共闘運動は下火になっていましたが、学園闘争がありました。ヘルメットをかぶって、授業料値上げ反対運動などをしました。高校のときに経験があったので、大学1年のときにリーダーになりました。中核派、革マル派などの党派に分かれていました。関西大学では、中核派がヘゲモニーを握っていました。その傘下に入って、デモを組織しました。教授を両脇で羽交い締めにして学内一周デモなど、今思うと申し訳なかったです。最後にその先生が言った言葉を覚えています。「もう満足したか」でした。自分が先頭に立って、なんと、失礼なことをしたかと、後悔しています。
入学後1年くらいして、哲学研究会(哲研)に入りました。学食で隣りに座った吉田と話をしていて、入ってみないかと誘われました。彼は「学生運動なんてだめなんだ」と言っていました。ブント、共産主義同盟から別れたもので、立正大学の岩田弘教授が教祖だった、構造改革派でした。岩田教授の本を読まされました。生産点からの反乱でなければ革命は起こせないと書いてあって、影響を受けました。
哲研は二、三回しか出ませんでしたが、吉田と親しくなり、一緒に住みました。大阪茨木市の岸ノ里というところで、大黒町を過ぎて二つ目の駅でした。十九歳と数か月でした。
二人とも童貞で、どっちが先に捨てるか賭けをしよう、ということになりました。仕送りが五~六万円でしたが、一万円賭けたんです。普通に暮らしていれば仕送りで足りましたが、パチンコなどをしていたので、アルバイトもしていました。
ある日、岸里のパチンコ屋にいました。隣りにおばちゃんが座りました。私がじゃらじゃら出しました。その女性は自分は何もなくなったのに、帰らないんです。ちらちらこちらを見ています。これはひょっとしたらやれるかも、と野望を抱きました。玉を少しわけてあげましたが、それでもなくなっちゃったんです。お金に換えて、「うちくるかい」と聞くと、「うん」と言われました。吉田に電話をかけました。大家さんの呼び出し電話でした。
「童貞、捨てれそうだから、家にいないようにしてくれ」
うちに連れて行って、童貞を捨てました。三十代で三段腹で、理想とはかけ離れた女性でした。全然気持ち良くなかったんです。「じゃあ、どうも」と言って別れました。商売女だったような気もしますが、お金も払いませんでした。それどころか、1万円もらったんです。

 

大学では一人の女性と出会いました。文学部の二年生でした。四国の伊方原発が計画されており、その反対闘争がさかんな時代でした。学費値上げ闘争で一緒にデモしていた人です。話したことはありませんでしたが、いい女だと思っていました。
学費値上げ闘争が一段落した頃、話しをする機会がありました。伊方原発反対闘争に行ってみないか、と誘われました。十人くらいで、大阪から船で四国へ渡りました。地元の人と意志疎通をしなければと思い、一滴も飲めなかったのに酒を飲みました。四国の人は酒が強くて、「酒、たべ」と言われ、どんぶり酒を出されるんです。私は飲んでぶっ倒れました。
伊方へ行ってビラ配りをし、帰ってきて、その日に彼女はうちにきて、なるようになりました。大学をやめるまでの七、八か月くらいの間は、めくるめく世界でした。はじめて女性との愛を感じていました。彼女のことばかり考えていました。
ある日、東大阪の彼女の実家へ行きました。両親を紹介されて、歓待されました。両親は四国の人でした。帰るとき、彼女は駅まで送ってくれて、別れたんです。でも別れがつらくて、また実家に戻りました。彼女の部屋は二階で、石をぶつけて知らせ、こそっと階段を上って彼女の部屋に行きました。寸分たりとも離れたくなかったんです。一途でした。今でもその一途さを持ち合わせています。
彼女は今でも愛しています。同い年です。彼女は途中で文学部から法学部に移りました。教師をやっていました。私は東京で工場労働者でした。大阪と東京で、遠距離恋愛でした。時々、東京に来てくれました。それがとても楽しみでした。加藤登紀子の「愛の世界」の一節の世界です。
アクセサリーが好きで、十字架のネックレスをしていました。女性、愛を一通り経験して、多感で幸せな時でした。人の情けに包まれて生きてきました。恵まれた人生でした。
 

6 工場での左翼運動。

 

しばらくして、吉田はこう言い出しました。
「俺は学校やめるぞ。東京へ行って、岩田教授が主宰している組織に入って、生産点に入る。お前どうだ?」
私は岩田弘教授の『現代国家と革命』という本に心酔していました。日本の基幹産業である自動車産業は、鉄鋼、ゴム、ガラス、最先端の技術など、日本の産業を結びつけており、ライン生産を行っています。生産点に入るというのは、その労働者になることで、生産ラインを止めれば、日本の基幹産業を止めることになり、反乱を起こせるのだ、という考えでした。私は、工場を止めて、屋上に赤旗が翻っているところを夢想していました。
昭和45年に大学に入学し、翌46年の7月にやめて、東京で工場に入りました。最初は立川で、それから中央線、八高線沿線を、昭島、拝島と転転と引っ越しを繰り返しました。職場は自動車の下請け工場でした。学歴を偽って、高卒だということにしました。頭を丸坊主にして面接に行きました。人手不足なので即採用されました。労働運動や学生運動が激しいときだったので、大学を中退したことが知れたら、大学に問い合わせられ、私が学生運動をやっていたことがばれてしまったでしょう。
20歳から24歳まで工場にいましたが、最初の二年半は、車のシートに使われるスプリング工場で働きました。毎日毎日、朝から晩までベルトコンベアの上にパイプが流れてきて、ばねのクリップを置くだけなんです。ひたすら単純作業でした。左翼思想を持っていたので、耐えなければならないことと思っていました。労働者を組織しようと思いました。
根がまじめなので、仕事は一所懸命やりました。三年くらいたち、溶接の仕事に回されました。単純労働よりワンランク上なんです。若干の手当てもつきました。シートのパイプ溶接を一年くらいやりました。最初は穴があいてしまったりして、難しいんです。シーエス溶接を教えられて覚えて、だんだん慣れてきて、素晴らしい溶接ができるようになりました。仕事自体に喜びを感じ、楽しくなってきました。
毎日、仕事が終わってから、組織の連中とミーティングをしました。組織には専従者がいました。2万円の給料のうち、1万円をピンはねされていました。専従者の給料にあてていたんです。
共産主義の言葉で、「細胞」の一員として、4年間過ごしました。工場には4、5人潜入していました。ある日、活動を公然化しようとして、拝島の駅前でビラまきをしました。
それから一、二か月して、朝礼で班長が言いました。
「この中にアカが混ざっている。この会社をつぶそうとしている。みんなで追い出そうじゃないか」
工場全部で、各班ごとに「出てけ、出てけ」と言われ、五人は外に出されました。連れて行かれたのは、工場から少し離れた掘立小屋でした。「明日からここに出勤せよ」と言われました。一人、監督がつきました。六十歳近い、温厚な、いい人でした。そこで半年、本当の単純労働をやらされました。朝はビラまきを続けていました。「工場に民主主義を」というスローガンを掲げていました。
ある日、直属の上司が、お父さんから電話が入ってるぞ、と言いました。
「守か。元気か。どこどこで待ってるからすぐ来い」
と親父は電話口で言いました。親父は拝島まで出てきたんです。私は会いに行きました。
「もう気が済んだだろ。家に戻ってこい」と言われました。おっかない親父がにこにこして言うんです。でも、そのときは使命感に燃えていました。「父さん、今は無理だ」と答えました。今から考えれば、親不幸なことでした。
「大学にも戻れるようになってるから」
と言われました。学費を払い続けていてくれたんです。ありがたい話です。親父は、「そうか」とだけ言い、私に無理強いはしませんでした。
「考え方変わったら、連絡よこせ」
と言われました。そば屋で、親父はそばを、私は卵丼か親子丼を食べました。
これが私の根底に刺激を与え、一つの契機となりました。
それまで四年間、工場で働いていて、嫌気がさしていました。給料は二万円でしたが、そのうち一万円は組織への上納金として、吸い上げられていました。ブント、共産主義同盟から派生した極左に属していました。生産点から革命を起こすとして、毎日毎日教条的なことを話していました。
基本は人間の温かみ、感性というものに影響を受けていたので、運動に違和感を感じていたんです。その頃の大親友に、山本という男がいました。彼がバイクの事故で死んでしまったんです。落ちこんでしまい、もういいや、と思いました。組織を離脱するという考えはありませんでした。離脱するくらいなら、死んでしまえと考えたんです。
そして、組織をやめました。
それまでも現状から脱却したかったんですが、組織、人民のために一生を捧げるという気持ちとのギャップの中で、組織を抜けるわけにはいかなかったんです。組織と仲間に対する裏切りになってしまうからです。崇高な社会主義革命に全存在をかけていて、人間としてやめるわけにはいかないと考えていました。まっとうな生を生きたいという相克の中で生きていました。
毎日毎日、組織の人間自体も信用できなくなっている中で、革命という崇高な理想を掲げていました。だけど、逃げたかったんです。
ずっと、左翼思想に対する違和感がありました。もっと人生を楽しんでいいんじゃないかとも思っていました。同時に、もっと人生を誠実に生きる方法はないのかなと考えていました。世のため、人のためと言いながら、方法論が違ったんじゃないかなと疑問がわいてきました。組織に属さず、自分で自分の人生を切り開いていこうと、工場を辞めました。
辞めることを告げると、労務対策の課長はにこにこして嬉しそうでした。我々の反乱の対策部長だった人です。
「あとのことは心配するな。社会保険もちゃんとやるから」と言われました。
法廷闘争もやりました。我々を追いだしたのは不当労働行為であると、左翼お抱えの弁護士が主張しました。経緯を陳述書に書けと言われました。八王子地裁にも何回か出ました。私の陳述書が素晴らしいとほめられました。裁判、訴訟、法律に接したのは、このときが初めてです。
かつて、今までの活動の総括を論文としてまとめて、組織の長老に出したことがありました。それも素晴らしいという評価を受けました。
今の仕事に対する、潜在的なつながり、萌芽がそこにあったのかもしれません。
人生には契機というものが意識しなくてもあって、花開いたりすることがあります。「人間は七つほめて三つ叱れ」と言いますが、どんなことであれ、ほめられて悪い気はしません。ほめることは、上に立つ者としては、年齢的、立場的、地位的に非常に大事なことではないでしょうか。人間は、自分が他者から評価されている、というときに喜びを一番感じます。
いじめのときの一番ひどいやり方は、無視、シカトです。ぶんなぐられるならまだいいんです。私自身もそうでした。
今、つとめてほめて、ジョークを言うように心がけています。私自身の性格もありますし、一杯飲まなければ自分を解放できないのでなかなかうまくいきませんが。
お客さんには非常に好かれます。お客さんから感謝されて、お菓子をもらうことが多いです。
人間は感覚(味覚、視覚、触覚……)で感動を覚えたり、感慨にふけることが多いと思います。言葉ではそんなに動きません。「情にまさる刃なし」に尽きます。
左翼運動に走ったのは、人民のためというよりも、自分のエゴだったのかなと思います。
コンプレックスは、高校で成績が下がったことでした。どこかに救いを求めるんです。そこに人類の解放、人民の解放という、美辞麗句が出てくるんです。そこにすがり、自分を合理化します。
都合のよいほうに走るという、醜悪な行動パターンは、誰でも持っています。自分を合理化するために、あとから理論づけします。
工場労働をしていた4年間で一番楽しかったのは、山本と話をしているときでした。一般的な、教条主義の左翼とはちがって、彼は人間通でした。
左翼は、人間らしい部分が出てきたときに、無意識に否定してしまうんです。こうしたい、ではなく、こうあるべきという、べき論に走ります。すべてを人民のために犠牲にするのがよいと考えます。
一方、こうしたいというほうは、内から出てくる愛情なんです。本来持っているものを発露させることは、その人にとって自分を一番解放することです。それは左翼では、許されないことです。意識的無意識的に抑圧してしまいます。だから共産主義はおそろしいのです。
山本は、べき論者ではありませんでした。立川に、キャバレーハワイチェーンがありました。人民に奉仕する人間が行っていいのかと思いました。
「坂東、自分を解放することが一番大事なんだよ」と山本は言いました。
7時までに入ると半額の1800円でした。六時前に行くと、まだ朝礼のようなものをやっており、女の子に店長が訓辞していました。そのときから並ぶんです。お金がなかったので、月に一、二回くらいでした。
他に楽しみは、日曜日に立川の喫茶店へ行くことでした。モーニングサービスはおいしかったですね。コーヒーとトースト、フルーツ、スパゲティです。

 

一番の組織のトップは、飛鳥浩二郎でした。いつもにこにこしている、いい人でした。理論的には、当時の左翼の最先端です。五十歳くらいだったでしょうか。私の論文をほめてくれた人です。「キャバレー、いいじゃないか」と言っていました。
共産主義者は凝り固まって「べき論」で生きています。豊かな人間性を、みんな持っているのに、発露する場がないんです。キャバレー行きがばれましたが、怒られませんでした。
立正大の岩田教授には会ったことがありませんでした。『現代国家と革命』によって、人生が脇道にそれました。
彼女は三~四か月に一回くらい来ました。胸がときめきました。めくるめく思いです。忘れられません。
工場を辞める頃、同じ組織の人間と二人で住んでいました。いろいろ話していくうちに、俺にはそういう女性がいたんだという話になりました。
「坂東、一緒になったらいいだろう」と言われました。その気になって、大阪の彼女に会いに行きました。
「一緒になってくれ」と言うと、
「坂東君、私、いくつだと思ってるの」と言われました。それまで1年くらい、会ってなかったんです。
なんと、結婚して子どももいたんです。彼女は常識人でした。意気消沈して帰ってきました。まあ、誰が考えても結婚生活が成り立つような給料じゃないし、大阪と東京と離れているし、当たり前のことです。
たまにみんなで飲むことがあって、カラオケに行きました。マイクを持って、本の歌詞を見ながら歌います。二十代前半でした。この頃から、現在にまで至るカラオケ狂いが始まります。
小さい頃、親父が飲むと、おもしろい親父でした。昔はみんな、おじさんおばさんたちもおもしろかったです。宴会では、おふくろやおばさんたちが、つまみ料理を作ったり、親父たちは酒を飲んで手拍子で歌ったりしました。「お富さん」などですね。軍歌は歌っていませんでした。カラオケは、自分が解放されます。

 

7 米屋の丁稚時代

 

今、64になりましたが、これまで心は純だったと思います。人を疑うことを知らないウブな人間ではないかと思います。
一方、共産主義は、人を縛りつけて、感情までも破壊します。思想の中にどっぷり浸かりながらも、情の部分を持ち続けられたのは非常にありがたい。something greatを抜きにしては、自分の生を語れないと思うようになりました。
二十四、五歳で工場をやめました。退職金が何十万円かあって、半年くらい、何もしないで本ばかり読んでいました。司馬遼太郎を全部読みました。それまでは本を読む余裕もありませんでした。
それから体を鍛えました。走ったんです。精神を癒して、左翼思想はやめました。が、残滓はずっとありました。この商売を始めてからも、左翼思想から逃れることができず、逃れられたのは、四十五歳くらいのときです。
もうけることは悪である。左翼は、根本的にそういう考えがあります。もうけないと、従業員、家族も食わせていけないのに。司法書士になってからも、呻吟の歴史でした。もうけるためにどうしたらいいのか、と普通は組み立てるのに、もうけることに引け目があっては、うまくいくわけがありません。
自分のあるがままに、これからは生きられるんだと、たまらなく嬉しかったです。真実の意味での解放ではありませんでしたが、そこで解放されました。
食べていかなくちゃならないので、最初、麻雀屋でアルバイトをしました。従業員は私だけで、店長としてほとんどを任されました。高校のとき、悪友に教えられて、麻雀は知っていました。代打ちといって、人が足りないときに入ったりして、半年くらいいました。料理を作ったりもしました。
麻雀屋の店員は半年くらいは続けました。麻雀屋の社長が米屋の息子でした。七十過ぎの爺さん、婆さんで経営しており、息子が三人いました。長男が不動産屋、次男が税理士、末っ子が麻雀屋です。次男はろうあ者で、十八歳で資格を取ったんです。日本一若くして資格を取った努力家です。お母さんが通訳をしていました。
ある日、大将から「うちの米屋、手伝ってくれないか」と言われ、それから四年間、米屋で働きました。店舗とは別に、ブレンド米を作る工場もありました。普段は、飲食店に配達をしていました。
ある日の昼休みのことでした。工場は親父さんが一人でやっていました。裏手にぼろい下宿があって、私は部屋をあてがわれて住んでいました。昼休みは十二時~十三時なのに、十三時半まで寝てたんです。親父さん、血相変えて、興奮して鼻から息を吐いて怒鳴りました。「坂東、こら! なにやってんだ」
米屋で働きはじめてから一、二か月たった頃のことです。おかみさんに、前日の売り上げを毎日、銀行に持って行かされたんです。吉祥寺の富士銀行でした。ある日、伝票の金額よりも現金が1000円多かったんです。私としてはごく普通に、銀行から帰ったとき、
「おかみさん1000円多かったですよ」と1000円を返しました。
あとから考えると、私を試していたんです。そんなこと全然、疑うこともなく返したんですが。
それからは、信用されました。それも、絶大な信用です。米を配達して歩いたり、精米所で親父さんの手伝いをしたりを、四年間繰り返しました。楽しかったです。
飲食店の開店情報があると、うちから米とってください、と宣伝に行きました。
吉祥寺は高級住宅街で、井の頭公園の近くでした。夕方になると、ランニングをしていました。だんだん暗くなり、ベンチというベンチがアベックだらけでキスなんかしていました。
あるとき、元スチュワーデスの奥さんでとてもきれいな人だからと教わったうちに配達に行きました。知性を感じるきれいな奥さんでした。私を見て、「アハハハハ」といきなり笑ったんです。なんで笑ったのか、さっぱりわかりませんでした。あとから考えるに、当時、見栄えがほとんど学生のような、まあ、知的な顔立ちながら、頭には手ぬぐいハチマキ、ヤマサの醤油の前掛けという恰好をしていました。自分で言うのもなんですがインテリめいた風貌と、米屋の丁稚というギャップを感じたのだろうと思います。しばらく笑ってました。
とにかくお客さんからかわいがられました。公園入口に新山食堂がありました。七十代のおばあちゃんがやっていて、三十七、八のすごく細い娘さんがいました。
「あんたみたいな人がなんで米屋やってるの。あんたは性格が良すぎるから」
と言われました。娘と一緒にさせたかったのかな。いかんせん、タイプじゃありませんでした。やせてても太っててもだめなんです。
ある日、突然、優しいおかみさんが豹変して、怒り出しました。なぜかわからなくて、戸惑いました。人間はこんなに変わるのかと、恐ろしかったです。ひとつのトラウマとして、今も残っています。
夫婦でやっているとんかつ屋がありました。米を配達に行っていましたが、「飯食ってけ」とすごく私によくしてくれました。奥さんは三十前後のきれいな人で、私は惚れていました。店に入ろうとしたら、二人の話し声が聞こえてきました。
「あの米屋、いい年して、丁稚なんかしてどうするんだろうね」
がっかりしました。二十六、七歳でした。私は馬鹿にされていたんです。人間の裏面を見ました。
富士銀行吉祥寺支店の厨房で働いていた人と仲良くしていました。「俺、米屋辞めて、司法書士受けることにした」と言うと、
「坂東君なら大丈夫だ。とにかく栄養つけないとだめだから。一番栄養つくのはレバー。食べれ」
そう言って、調理をして、何回も持たせてくれました。
米屋の大将の嫁の息子は七、八歳でしょうか。大将が「坂東」と私のことを呼び捨てにしていたのを真似して、「こら坂東」と言っていました。このガキと思って、見ていないところでぶったたいてやろうかと思ってました。屈辱でした。
朝行って、シャッター開けて、店の前を箒でそうじし、水をまきます。
井沢八郎が「どこかに故郷の香をのせて」と歌う「ああ上野駅」という歌を、あとから歌うたびに、当時の米屋のことを思い出します。
崇高、孤高の精神を保ってはいましたが、米屋の丁稚でした。今までの反動で、実社会に生きてお客さんに喜んでもらうことが嬉しかったです。家も商売でしたし。
社会人として生きているという、それなりに充実した四年間でした。苦労と言っても、振り返ってみれば、自分には身についていないなあと思います。苦労したほうだと思いますが、苦労したという感覚はありません。どちらかと言えば、幸せな人生だったと思いますが、過去形で語るにはまだ早すぎますね。
物質的、精神的に人生を楽しめる時代にやっと入ってきたのかなという気がします。
あるとき、四年くらいたったとき、おかみさんから言われました。
「坂東君、話がある。店持たないか、お金も全部出してあげるし、お嫁さんも見つけてあげるから」
こんなありがたい話はありません。お金がないのはわかっています。それだけ信用されていたのでしょう。二十八歳でした。
米屋やってたら、どうだったかな。それはそれで幸せな人生だったかなと思うこともあります。
そのとき、待てよ、一生米屋かと思いました。これまでの人生で、親父、おふくろから「末は博士か大臣か」と言われていました。プライドが高くて、今は仮の姿だという気がありました。即座に断りました。
「ぼくはだめです。一生、米屋をやる気はありません」と言いましたが、「とにかく考えてごらん」と言われました。昭和五十五年の十月か十一月のことでした。そこまで言われて断って、あと何するんだ、どうやって生きていくんだと、はたと考えました。そこに法廷闘争のことがよみがえってきたのかな。弁護士がいいんじゃないかと思いました。
本屋に行って調べたら、大学で四十四単位取っていなければ、司法試験の一次試験を免除になりませんでした。大学にもう一回入学しなければならないなんて。弁護士はだめだと思いました。
司法書士について書いた本がありました。司法書士という言葉すら、知りませんでした。ステイタスはそれなりに高いようだし、学歴不問でした。登記のトの字、法律のホの字も知らないし、六法も見たことがありませんでした。
「おかみさん。申し出ありがたいけど、ぼく、司法書士になります」と言いました。
「本当になるつもりなの」と言われました。たぶん、おかみさんには、司法書士は代書屋さんというイメージがあって、それなりのステイタスがあるもので、そんなものに米屋の丁稚がなれるわけがないと考えたのでしょう。それを押し通して十二月で辞めました。
おかみさんは、よっぽど腹が立ったのでしょう。給料から天引きされていた、商工会議所の積立金が五十から六十万円あったので、それをくださいと言うと、「あんたにはあげられません」と言われました。しかたないかなと思って、それ以上は何も言いませんでした。自分の好意をあだにしたという、おもしろくない気持ちがあったのでしょう。明治生まれの人だと思います。
司法書士を受けようとした動機は、「一生米屋か」という気持ちが三分の一、親父おふくろを安心させてやりたいという、親を思う気持ちが三分の二です。合格したら喜ぶだろうなと思ったんです。
予備校に行こうとは思いませんでした。お金もありませんでしたが、なんとかなると思いました。退職金もないし、親とはほとんど絶縁状態でしたが、親父にハガキを一枚書きました。「司法書士になることにしたから五十万円送ってくれ」と伝えました。親父は「守、おまえならできる」と言って、五十万円くれました。親父は私を心の底から評価してくれていました。中学くらいから、お前なら東大でも行けると言っていました。
新山食堂の娘さんが借りていたアパートが保谷市ひばりが丘にあり、たまたま空室がありました。
「あんたならできる。大丈夫だよ。勉強するのに米屋を辞めるなら、住むところがないでしょう。そこに住みなさい。お金いらないから」と言ってくれました。ありがたいことです。捨てる神あれば拾う神あり、苦あれば楽あり、です。その言葉に甘えて、住まわせてもらいました。

~続く