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坂東守の激白録(全)

坂東守の激白録

 

坂東 守

 

目次

 

はじめに

1 夕張にて
2 札幌での小学校時代
3 いじめを受けた中学校と灰色の高校生活
4 左翼運動へ
5 大阪へ~大学入学
6 工場での左翼運動。
7 米屋の丁稚時代
8 司法書士受験
9 司法書士という仕事
10 両親のこと。自分の生
11 出会い
12 わが師
13 私の人生観
14 私の国家観
おわりに

 

 

8 司法書士受験

 

 

司法書士の本を買いあさったのが十二月で、翌昭和五十六年一月一日から勉強を始めました。このとき、六法を初めて見ました。合格者は18,000人のうち、400人でした。二、三%の合格率です。なまじかな方法では受かりません。自分を道具として使うしかないと考えました。自分には能力があるという、限りない、自分への確信、自信がありました。あとは、能力をどう使うかだけだと思ったんです。

法律を知らず、十数年間肉体労働ばかりしてきて、勉強をしなかったんです。一日最低でも十時間は机に向かうことから始めようとしました。何をするかはそれから考えることにしました。六法の条文を書き出して、全部覚えてやろうと一か月くらいやりました。でも無駄だと気づき、途中でやめました。普通の人と同じことをやってもだめだと思ったんです。

参考書を見ても、さっぱりわかりませんでした。これはマインド、勉強の土壌を身につけなければならないと考えました。そこでリーガルマインドを身につけるために、図示されている判例集を徹底的に学びました。法律家の土壌に頭を作りかえるのに、三か月かかりました。

残りの三か月は、十年間の過去問をやりました。

集中力は人間にとって、必要なことです。どんな場面でも、雑音があっても、集中できます。司法書士を受験するときは、一日十三~十四時間勉強して、そのうち十時間は集中できましたが、三か月しか続きませんでした。

コツはところどころにアクセントを置くことです。料理したり、食べたり、散歩したりします。昭和五十六年一月一日から、初めて六法を見て勉強を始めました。夕方、十五分~二十分の散歩をしました。東京の保谷市に住んでいましたが、散歩をしながらも、勉強のことしか考えていなかったんです。はっと気づいたら、桜が咲いていました。それまで気がつかなかったんです。桜って、こんなにきれいなものなのかなと思いました。

四月に実家に帰り、「父さん、母さん、試験大丈夫だわ」と言ったのを覚えています。そんなこと、よく言ったものだと思いますが。

 

試験日は七月十日です。六月の一週間、学校に行きました。最後の授業で、昭和五十五年の民法改正の話が出ました。相続の話でした。それまでは、配偶者が1/3、子どもが2/3でしたが、改正後は1/2ずつに変わったんです。

「改正したときは必ず出るから気をつけなさい」

と言われました。授業後、二十人の受講生の内、五、六人が残っていました。そのとき先生が言ったんです。

「言い忘れたんだけど、昭和五十五年以前の相続に関しては、従前の法律が適用になるからね。配偶者が1/3、子どもが2/3だよ。そこに気をつけなさい」

つまり、死亡したときがいつかによる、ということです。そこがズバリ出たんです。かなりの受験生がひっかかったのではないかと思います。ひっかかっていたら、今の私はなかったかもしれません。

天の声、見えざる手を感じます。おもしろいと言えばおもしろい。奇跡と言えば奇跡です。そもそも自分が生を得たことが奇跡です。どこかでつながっているのかな。未来を先取りすることが、ときどきあります。神というものがあるとすれば、見えないものを信じさせようと、そういう事象を起こしているのかなと感じることがあります。

テレビを見ていて、時計をふっと見たときに限って、五‥五五や三‥三三だったりします。一つ間違えたら、生を保っていなかった、ということがいっぱいあります。一つの啓示でしょう。

もともとは唯物論者でした。そうではないと、天が教えてくれたのかな。不思議な符合があるんです。こういう本を書いているのも、一つの流れなのかな、と思います。

早稲田大学で受験して、試験が終わったあと、みんなが話しているのを聞いていたら「全部間違えているから落ちたな」と思い、あきらめました。でも、受かっていました。

 

 

 

 

9 司法書士という仕事

 

 

司法書士の仕事はほとんど登記です。平成十五年から、140万円までの簡易裁判所の代理権を与えられました。その資格を平成十八年に取りました。民事裁判においては、弁護士と同じことができるようになったんです。それから借金問題などの仕事をするようになりました。

昭和の末から平成のバブルまで、つまり十七、八年前までは、仕事がうまくできなくて呻吟した時代でした。ハンデがあるので、営業ができなかったんです。でも、私が司法書士という仕事に一番求めていたのは、裁判の代理権だったのです。代理権が与えられる気配などなかったんですが、それでも求めていたんです。たとえどんなことでも、思いがあれば、天も動かせるんです。

当時、仕事は、ほとんど一人でやっていました。その後、多いときは、二十人のスタッフを雇うようになりました。劇的な人生の転機を迎えたのです。スタッフみんなが仕事をしているのを、見ているのが楽しいです。経営者の義務は、雇用の確保と税金の納付だと思います。一人の人を雇うということは、その人の配偶者、子ども、おじいちゃんおばあちゃんなど、何倍もの人を幸せにできることなのです。そのためには、物質的に満足させること、収益を上げることが重要だと、経営者として感じています。

昭和五十六年に開業したときは、まだ左翼を引きずっていました。だから、もうけることは悪であるという意識がありました。それでは営業にも力が入りません。

自分の得意分野で、縦横無尽に仕事ができるようになりました。今では仕事の九〇%以上において、直接依頼人に会って、問題を解決しています。登記の仕事の場合は、依頼人に直接会うことが少ないんです。銀行、不動産業者と会うだけです。普通の司法書士は、九割が登記の仕事でしょう。

こういう法律事務所が維持できているのは、お客様が来てくれるからです。逆のほうから見れば、坊主、医者、弁護士は、それぞれ、死、病気、争いという人の不幸を糧にしているんです。司法書士も似たようなものかもしれません。それなのに、「先生」と呼ばれたりするんです。その部分は、よっぽど自分を律していかないといけません。因果律としては、人の不幸につけこんでフィーをいただいているんですから。本当はたいした仕事じゃないということをわきまえていないとなりません。依頼者と会ってお帰りになるときは、必ず、出口まで送っていって、「ありがとうございました」と最敬礼します。お金をいただくので、失礼のないようにしなければなりません。

両親の背中を見てきました。親父は七十二、三歳までよろず屋を続けていました。だから、「ありがとうございます」と言うのに、抵抗はありません。司法書士になってから、苦しい時代があったので、お客様が来てくれるのはありがたいことだと思います。

日本語には裏の意味があります。「ありがたい」という言葉は、本来はないはずなんだけどある、ということです。借金の過払いの中から、何%という報酬をいただきます。人の不幸の上前をはねるんです。その仕事に対する、感謝の念は、日々持っています。

一人一人に対して、one of them たくさんいるお客様の内の一人、じゃなくて、有象無象の一人一人がいて、大勢になるのだと考えます。依頼者には必ず会うようにしています。依頼者は、借金取りに追われて、心が本当に索漠としています。でも、ヤミ金に対して、うちから、一回電話すれば、もう督促はなくなります。

自殺をしようとして、留萌の海に飛びこもうとしていた人がいました。たまたま駅舎にスポーツ新聞があり、うちの事務所の宣伝が載っていたんです。一縷の望みをかけて、電話してきました。「すぐ来なさい」と言って、来てもらいました。その場でヤミ金に電話をかけ、「やめなさい」と言いました。すると、ヤミ金は「わかりました」と言いました。依頼者は泣いて、それから嬉しそうにスキップして帰りました。くしゃくしゃの一万円札をもらいました。そういう人からあまりお金を取ることはできません。正規料金はもらわず、「これでいいから」と私は言いました。

 

 

 

 

10 両親のこと。自分の生

 

 

武家の商法と言いますが、親父は明治生まれの警察官でした。男子たるものはこうあらねばならない。女房は三歩下がって歩け、という感じでした。ときどき、おふくろに対してはすごくやさしい親父でした。よく反物を買ってきてあげていました。おふくろは昼間から着物を着ていました。洋装になったのは、だいぶ後のことです。

親父は去年の十二月に、手稲の病院で亡くなりました。兄弟は三人いますが、末っ子の私のところに仏壇があります。

おふくろの晩年は、すべて親父が面倒をみていました。おふくろは八十三で亡くなりました。

親父が亡くなったとき、私は小樽へ行っていました。車を運転していて、手稲を過ぎたあたりで携帯電話が鳴りました。「血圧が下がっているから来てください」

ちょうど近くにいたので、すぐにUターンして病院へ行きました。血圧は正常より少し下がっているくらいだったのですが、私が病院に着いて一、二分してから、血圧が急激にすうと下がってきて、息をしなくなりました。臨終は、着いてから七、八分後くらいでした。私を待っててくれたのかな。「守、世話になったな」と一言、言いたかったのかな。

人生において、不思議なことは非常に多いです。something greatを信じるようになった一番の契機は、四十代のバブル経済のときのことです。ススキノで飲み歩いていい気になっていました。その頃は、酔っ払い運転はあまりうるさくなかったんです。東苗穂に住んでいて、ススキノから車で帰ったことがありました。岩田建設があり、向かいが豊平川の北一条通りを走っていました。運転しながら眠ってしまったんです。自然にハンドルが右に切れて、土手に落ちる一歩手前で、何かに頭を殴られて、「痛っ」て目が覚めました。あわててハンドルを元に戻しました。たまたま対向車はいなかったんです。

意識の中でガンとやられました。たぶん、ご先祖様だと思います。ご先祖さまは、something greatとは違うものと理解していました。

まだお前は生きて、人のために尽くす価値があると言われたのではないでしょうか。自分の子、孫は一般的にかわいいものです。そういう思いですね。

唯物論者には理解できないでしょうけど、肉体が焼かれようとも、思い自体が焼かれるわけではないから、私のような人間にとっては、思いはずっと続くものなんです。

生きている人間同士でも、相性、自ずから通ず、という部分があります。

 

開業して三~四年たった、三十三歳のとき、拓銀の支店長らと洞爺湖、伊達に二泊三日でゴルフに行きました。洞爺湖で風呂に入って、ほとんど裸で外に出て、花火大会を見ていました。夏でしたが、寒い日で、すっかり風邪をひいてしまいました。それでも次の日、しとしと雨の中でゴルフをやって、熱が四十度出ました。迷惑をかけられないと思ってゴルフを続けていました。帰ってきたら、体力の限界でした。行きつけの病院に行ったら四十一度に上がっており、肺炎になりました。レントゲンを撮ると、肺は真っ白でした。医師に「うちじゃ無理だから、近くに病院ないか」と言われました。このとき、先生はあきらめてたんじゃないかという気がします。それから札苗病院へ入院しました。そのまま二日くらい病院にいました。そのままそこでジ・エンドとなってもおかしくなかったと思います。一巻の終わりという筋書きだったんです。そのとき四歳下の女房は三十歳ちょっと、子どもは一歳か二歳でした。

レントゲンを見た先生は「こりゃあひどいな」と言いました。点滴を打ちましたが、たぶん、その時点でもうだめだと先生は思っていたんじゃないでしょうか。二日目の夜からものすごい汗が出てきて、次の日の朝、熱がすっかり下がっていて、治ってしまいました。そこで、ひとつの生を与えられたと思いました。

 

 

11 出会い

 

 

人との出会いに限らず、いろいろなものとの出会いが私を助けてくれました。出会いは偶然のように映りますが、今、確信を持って言えるのは、必然だということです。世の中には偶然などないのではないでしょうか。人生というステージの上で生を演じきるなかで、あらかじめ決まった出会いがあって、人生は最初から決まったものじゃないかと思います。人生にはのりしろがあって、自分の努力、未来への希望、学んだこと、失敗などを生かして、次のステージに持っていく。そういうものが必然と偶然の摂理ではないでしょうか。

人生は、どちらかと言えばつらいものです。いろんな困難があって、どんな境遇に生まれようとも、劇的に落ちたり上がったりを繰り返していきます。それが運命です。

全ての原因は、自分から来ています。あえて敷衍すれば、自分の今の境遇の因は、歴史の縦軸、父、母、さらに先祖にもあります。苦労は自分の生から発した部分と、先祖の因を現世において果たしている部分があるのです。苦労、困難を乗り越えることによって、自分自身の救済と、先達に対する供養にもなるのではないでしょうか。

自分の過去半生は苦か楽かと考えると、苦が大部分を占めていたと思います。ただ、そこで、いろんな出会いがありました。楽な時代においては、出会いの重要性を見過ごしてしまいがちです。苦の時代に出会った人たちのありがたさは、苦の時代にはじめてよくわかります。物質的援助ではなく、自分を省みる契機を与えてくれました。

徐々に変わる、発展していくということは、基本的にはないと思っています。どこかで飛躍して、次のステージに移るのです。

もともと左翼でした。ヘーゲルの弁証法、それをマルクス、エンゲルスが止揚(アウフヘーベン)しました。私がマルクス、エンゲルスについて、現在、評価できるのはそこだけです。あとは全否定しています。当時は全肯定しており、科学的社会主義、共産主義になるべきだ、と言っていました。

歴史は人の要素、国家の意志によって作られると考えています。国にも意志があるのです。今、日本が困難な局面から立ち上がろうとしているのは、国としての意志です。国も一つの有機体です。国民一人一人の集合体、家族の集合体としての国家というものがあるのではないでしょうか。

国家のレベルは、国民の意識のレベル以上のものにはならないのではないでしょうか。

日本を見ると、天皇陛下がいて、今年は、神武天皇の即位から数えて皇紀二六七三年です。外国に日本人が行って、「日本はいつできたんですか?」と聞かれて、答えられる若者はいないのではないでしょうか。そういう教育を受けていないんです。神話の世界から教育して、自分の国の成り立ちを子どもたちに教えて、答えられるようにすべきです。

出会いというものの大切さは、万人に平等にあります。出会いに気づくかどうか、その気づきが非常に重要なのです。気づくために必要なのは、常に求めていることです。こうなりたいという強い思いがあれば、それに応えてくれる人に必ず出会うものです。師と出会うこともできます。

私は師との出会いに、非常に助けられました。自立、自己の確立というものに、一歩でも踏み出すことができました。

肉体的な困難は、現実的に乗り越えることはできませんが、自分を直視して、その中でいかに止揚していくかということが、一つの課題です。

もう一つの課題は、困難は次から次に襲ってくるということです。罪を犯して、因果律的、法律的に困難に陥るというのはよくわかります。そういう場合とは違って、困難は誰にも襲ってくるものです。

 

特に女性に対しては、うまく笑顔が作れません。ひょっとしたら気質的な部分から来てるのかなと思って、病院に行ってみましたが、レントゲンやMRIで調べてみても正常でした。

肉体的困難に加えて、人と意志疎通を円滑にできないというハンデを背負いながら、人として、対人関係の中で生きていくのは、たいへんなことでした。

そんなとき、レキソタンという精神安定剤に出会いました。薬を飲んだら症状が治まるんです。小学校のPTA会長だったんですが、人前で話さなければならないときなど、決定的な場面で役に立ちました。PTA会長など苦痛に感じるなら、引き受けなければいいのに、役割が回ってくると受けてしまうんです。

神経科の先生から処方されて服用すると、心が落ちついて表情が作れるようになったんです。眠くならないし、普通に人と会話できる状態になりました。大きな出会いでした。

カイカという酵素と、それからプラサーダという乳酸菌の一種も同じ頃に出会って、毎日三十年くらい飲んでいます。肺炎で死にそうになったあとは、病気らしい病気になったことがありません。風邪をひくのも何年かに一回です。昔はよく熱を出していましたが、肉体的に非常に健康になりました。

 

飲み屋の女性と会っても、この人となんとかなりそうだなということが、なんとなくわかるんです。そういうときは、自分から距離を置きます。開業してからも、わりと女性にはもてました。独身のときですが、スナックのママが私にほれちゃったんです。私は文学的素養がわりとあったので、口説き文句を小説から引っぱりだしたりしていたら、すっかりどつぼにはまってしまって。ある日、営業中だったのに、抜け出して飲みに行こうとママに言われました。ホテルに誘われたのだと思います。なんとなく飲み屋に連れて行かれ、そのまま帰ったら、ママが店に戻ってから、半狂乱になったのだそうです。チーママに言われました。

「ひどいよ。女の心をもてあそぶんじゃない」

好意を寄せてくれた女性はけっこういました。自分から、というのはほとんどありませんでした。

今でも根底には倫理観を持っています。男と女は愛し合って、お互いを理解し合って、いたわりあうべきだということです。誤解を恐れずに言えば、女は弱いものなので、守ってあげなければならないという存在でもあります。おろそかなことはできません。そういう気持ちがあるので、飲みに行っても、女性に奉仕します。お客さんが喜んでくれることが、水商売の女性にとって一番嬉しいことなんです。いかに楽しく飲んであげるかを考えます。私の酒は非常に楽しいんです。なぜか、アルコールが入ると、女性の性格、過去が見えます。いろんな馬鹿話もします。男が馬鹿になると、女性は喜びます。女性に対する、男としてのエチケットですね。

人生において、物、薬、道具との出会いも重要です。例えばゴルフでは、ドライバーやパターとの出会いによって、劇的に数字が変わることもあります。でも、求めていなければ、ドライバーと出会うこともないんです。

普通の対人関係を築きたい。喜怒哀楽を素直に表現できる人間でありたいと、考えています。

高校に入ってからはうつ病にもなり、今でも続いています。

アルコールが入ると、楽しくなりますね。

真摯に生を考えてきました。人間にはいろんな面があって、普通なら出家したりして、一つの方向に走ってしまいますが、私は遊ぶのが好きですし、カラオケが好きでした。ハンデがあって自己表現ができなかったので、アルコールの力で、自然と表情が作れたり、精神的に解放されたり、能弁になったりできるようになります。アルコールは嗜好品じゃなくて、一つのツールなんです。本当は体質的に受けつけなくて、正直言って嫌いです。三十歳までは一滴も飲んだことありませんでした。ビールをコップ半分で倒れていました。開業して、ロータリークラブに入って、飲む機会がありましたが、二次会など苦痛でした。

鼻が詰まり、心臓がばくばくして、目はひどく充血します。十五年くらいかかって、なんとか飲めるようになりました。今でもうまいと思ったことは一度もありません。アルコールが入らないと、自分を解放して、楽しく女性と話せません。酒が飲めるか試すパッチがあって、試してみたら、一番飲めないということがわかりました。アルコールも一つの出会いですね。深い感性が自分に返ってくるのを感じます。

酒に飲まれたことは一度もありません。飲んでいるからこそ、自分を突き放さなければなりません。アルコールは快楽ですが、必ず反動があるので、自分を突き放していかなければだめなんです。

アルコールも一種の薬です。法治国家において許容される、快楽の毒薬です。決して馬鹿にはできません。酒といかにうまくつきあうかは重要です。人生が破滅することもあります。自分の肉体が、どのくらいアルコールに対して許容性があるのか認識することは、アルコールとつきあう重要な点です。肉体的にこれ以上飲めないな、というところでやめます。

たいてい焼酎か、時に水割りを飲みますが、どういうわけか途中で醒めてくるんです。度数の低いビールを飲むと、また復活して、テンションが上がります。

何事も中途半端が嫌いです。飲めるようになってからは、アルコールに溺れた時期もあります。自分を失わない程度ですが。

他に熱中したのはカラオケですね。ちょっと溺れちゃったかな。現在という生を生きるから、昔を懐かしく思う気持ちが生まれてきます。若くても年をとっても、いつもそういう気持ちがありました。懐かしい歌が時代ごとにあります。歌うと、時代のにおい、感覚、感性がよみがえってきます。美空ひばりなんか大好きですね。

 

切実に求める気持ちが強いほど、出会いに気づきます。

「求める気持ちがあれば、出会いは一瞬早からず、一瞬遅からず」と師から教わりました。

「大きく門を叩け、さらば開かれるであろう」とキリスト様も言っています。

大きく求める心があれば、大きく開かれるのです。

自分の負の面がある半面で、自信過剰な部分もあり、バランスが取れています。これに助けられています。親から受け継いだ先天的な楽天性、ある意味のいいかげんさに助けられました。

人生の真実は、いかに生くべきか、ずっと考えてきました。求道者ではありましたが、あり続けるためには、出家したわけでもないので、どこかに潤滑油がなければなりません。それが楽天性です。

一番大事なのは、子どもの純な心、人を信じる心です。それがなくなったことはありません。嫁に「あんたほとんど子どもだね」と、今でも言われています。魂、心、ハートの純粋な部分は、自分でほめてあげたいです。これがあったから、今まで生をまっとうできたんです。ご先祖様のおかげもありますが。

 

出会いと言えば、女房に触れざるを得ないですね。

開業したのが三十歳のときです。お見合い結婚しました。それまでにも、三回くらいお見合いしていました。そのうち、二回は断られました。一回はこちらから断りました。大金持ちの娘さんでした。

眉目秀麗とまではいかなくても、女性に対する固定観念があったんですかねえ。

好みのタイプは、清楚であること。あんまり太っててもやせててもだめです。

ぴったりだったのが、四回目のお見合いで出会った前妻です。行きつけの飲み屋のママさんに紹介されました。そこの家庭が温かい家庭でした。

彼女も欠点の多い女性でした。嫁姑の関係だとかがあって、結局、晩年は、うちの親父とおふくろを引き取ったあたりから、精神的におかしくなりました。激やせしたんです。両親の面倒をみるという荷が重かったんでしょう。

両親を引き取ってから半年くらい経ってから、前妻にガンが発見されて、一年間、入退院を繰り返して、ちょうどその頃、母も入院して、あまり長くないだろうと言われていました。私は両方を行ったり来たりしていました。

一年くらいして、女房が死にました。その半年前の七月三十一日に母も八十三歳で息を引き取りました。父は去年、一〇二歳で大往生でした。

もうちょっと、女房に優しくしてあげればよかったと思いました。その頃は、いつも午前様で、酒とカラオケに溺れていました。後悔として残りました。

子どもに弁当を作ったりしたんですが、自分の手でおにぎりをうまく握れなくて、涙を流したこともありました。この子は、親である私から独立しようとしているところですが、まだまだですね。中古自動車売買の会社を経営しています。前妻が残してくれた一粒種だから、かわいいんです。かなりのワルでした。高校時代は、十回くらい学校に呼ばれて、停学もありました。

息子に望むことは、自立です。

私は親に対して畏敬の念を持っていて、物質的、精神的にも頼っていました。それがなくなったのは、母親が死んだときです。このとき私は四十六歳、子どもは十四歳でした。

父も施設に入って、父の死も現実になったし、親に対する執着がだんだんと薄れていきました。父親を客観視できるようになりました。自分の息子は、まだ自立していません。

親の死はいずれ来ます。自分から親を突き放すようなクールな心境になったとき、はじめて自立できるのではないでしょうか。

三年後に、高校の同窓会がありました。打ち上げで幹事長が行きつけの店で、ホステスをやっていたのが今の女房です。私よりも十六歳若いんです。

今の女房には、人間的に教えられる部分が多いです。人間的に認めています。私はだらしないので正反対ですが、妻は潔癖症です。ただ、楽天家という部分は、私も共有しています。

女房の家族もまた、魅力的なのです。兄が二人いて、弱さも持っていますが、非常に人間らしいんです。必ずしも経済的に恵まれた家庭ではなかったようですが、自立心が旺盛です。前妻を人として尊敬していないというわけではないですが、欠点の多い人でした。あの世で迷わないように、毎日仏壇に手を合わせています。

 

 

 

 

12 わが師

 

 

人生において、師、一人に出会えたら、素晴らしいことです。私には二人の師がいます。感性を解放してくれた先生と、ブッダの世界に対して目を開かせてくれた先生です。

三十五、六歳のとき、「気」に関心を持ちました。精神世界のことが気になり、本屋に行くと、気の本に出会いました。氷山の見えない部分が、人間の深層意識であり、自分の行動のほとんどの規範を律している。そんなことから始まって、生の根源は気ではないかと書いてありました。

気が満ちたときは充実しているんです。気とはロウソクの炎みたいなものであり、消えたときに生が終わりになるのです。肉体は気から成り立っているので、老化しようとも、気が充実していれば、元気なのです。1〇〇歳になっても当たり前に医者をやっている人もいるし、気と生は両輪であると書いてありました。

その師との出会いが、私の人生をほとんど決めてしまいました。私の精神性の根底に、先生の教えがあります。

開業して間もなく、仕事がなく苦しいときでした。そういうときに限って、出会いがあるんです。自分はいかに生くべきか、ということを求めていました。小学校低学年のときから、自分は特殊なハンデを負った人間であるので、人の上に立つ人間にならなければならないという意識がありました。一、二年生のときから、人生いかに生くべきかと考えていました。早熟でしたね。その根底には、親を安心させてあげたいという思いがありました。

中学の頃、「お前を生んだ責任があるから……」と親が言っていたんです。そう言われる前から、親は自分を生んだことに、呵責の念を持っているのではないかと思っていました。その思いに応えるには、自分が偉くならなければならないという思いがありました。それが思考パターンの根底にあるんです。

親は、普通に育っていけるのか、心配だったと思います。それを子ども心にもわかっていました。親の心配を払拭するにはどうしたらいいかと考えていました。感覚的に、安心させたいと思っていたんです。勉強、運動、なんでも一番でした。「一番になったよ」と親に伝えると、本当に喜んでいました。私の生を形作っているのは、その気持ちだけです。

五、六年前、川のほとりを散歩しているとき、ある瞬間、ふっと感じたことがありました。もう、自分にとって悪いことは起きないなと思ったんです。一安心しました。実際、それから悪いことは起きていません。因果の果を、だいたい果たしてしまったのかな、と思います。天の啓示でした。それまで、悪いことが起きすぎました。それでもなおかつ、今でも生を保っているのは、ご先祖様のおかげです。天が七難、八難を与えてくれたことに感謝しています。

どん底の経験をしたことが、今の自分の生を充実させているのかなと感じる部分があります。

 

先生から毎月、月刊誌が送られてきます。毎月、教えられること、気づきがあります。目に見えないものに対する謙虚さ、畏敬の念、国家に対する考え方、が今の私の考え方の八割を形成しています。

渡部昇一先生のおかげで、共産主義から脱却できました。雑誌「致知」は三十年読んでいます。

行徳先生との出会いもありました。十五年前に、三泊か四泊の修行を経験し、感性を解放されました。そのとき、完璧に一回、人格を壊されたんです。泣いて泣いて涙が枯れるまで泣いて、解放されました。

「蓮の花は泥の中で咲く。お前たちは、道場から出た瞬間に、泥の中に足をつっこんだ状態になる。その中で蓮の花になれ。がちがちに固まったお前たちの心の中に、俺はひびを入れたんだ。自分を解放するかは、お前たちの心のあり方にあるんだぞ」と言われました。

いったん、外界と遮断されるんです。外に出たときは、世界がキラキラ輝いていました。行徳先生のほうが、より、自己責任的です。自分で自分を解放するんです。

もう一人のは、死と生の摂理を教えてくれました。

 

 

 

 

13 私の人生観

 

 

四十代半ばまでは、追いこんでいなければ自分はだめな人間だと考えていました。常にせっぱつまった中で生きてきたんです。ここ十年くらい、六十代になって、現状を肯定していくようになりました。

二年半、「坂東守のユーガッタ相談室」というラジオ番組で話していました。こんなにおくてで口下手なのに、ラジオで話せるのかと思いましたが、断れない性格で、しかもいい加減なので、受けてしまったのです。人気が出て、ナンバーワンになりました。

今回の本作りも、できたらやりたくありません。断りたいというのが、気持ちの八割を占めていました。行徳先生の修行が札幌であって、酔っぱらって演説してしまったんです。

頼まれれば断れない、弱い、よく言えば人のいい性格なんです。恥ばかりさらしていますが、あとから考えて、結果は良かったなというのが大部分です。

これもひとつのメルクマール、求められたことではないかと思います。何が吉、凶と出るか、やってみないとわかりません。まず行動ありき、とは行徳先生の教えです。先生は、陽明学の薫陶を受けた先生です。

自分がどこまでの能力か、試したいと思っています。自分に対する好奇心があります。言葉に出してみないと理解できないということがあります。話していて、自分はそういうことを考えていたんだなとわかるんです。

 

肉体的なハンデと精神的なハンデを乗り越えようとする葛藤の中で生きてきました。乗り越えようというときは、ある意味では傲慢、不遜、自信過剰の情況なのです。それが素直に、肉体的欠陥を認めよう、になったときから、精神性に目覚めるようになりました。

障害者は、障害をメルクマールとして、どちらかに振れるのではないでしょうか。

人間関係にしても、自分の生き方にしても、人との出会いにしても、個々の事象に関しては、必ず自分の相克の中で、それに見合った事象が現れています。

人との出会いは、一瞬遅からず、一瞬早からず、です。自分の精神のありように合った、大切な出会いを逃したかもしれないし、逃げてしまったかもしれません。

気持ちの持ち方、求めるものを明確に意識しているかどうか。そのようなものが事象となって表れるということを痛切に感じています。

根底では、いい人間であると思います。かつ、不器用で素直であると。それと、傲慢、不遜などが共存しています。前者が優越しているときは、精神的物質的に平穏な時代です。後者の部分が支配していたときは、負の時代でした。

すぐれて、精神のあり方が生を決定づけるのかなと思います。今は口に出してこのように表現することができますが、小学校低学年の頃から、無意識的に感じていたことです。自分は今後どうやって生きていくのか、よく考えていました。

 

基本的に明るく、楽天的で、愛情過多で、親孝行、親思いです。自分を評価してあげてもいいんじゃないかと思います。その一方で、対人関係の中で自分を表現できないという悩みがありました。相克です。特に女性関係において、それが出ました。女性とつきあうことがうまくできなくて、人一倍、愛情、女性に対する憧れがあって、相克の中で葛藤していました。つい最近までありました。今でもあるのかもしれません。

常に相反する中で生きていました。自分探しという言葉は好きではありませんが、自分の本質、自分が来て帰っていくところはどこなのかという問いに、幼年時代から思考の中心があった気がします。そのへんで、先生の著書に出会いました。先生の話を聞きに東京へ行き、鬱病だとか性格的欠陥は、ある意味、純然たる気持ちの持ち方、精神的なもので解決できる部分と、そうでない気質的な部分があるんじゃないかと考えました。

私の場合、多分に、精神的なものじゃなくて、気質的なところに原因があるんじゃないかと思います。

 

私は謹厳実直です。生を真摯に考える部分がありますが、遊ぶことも好きです。まだ、本当の求道者ではないのかなと思います。この世的な快楽を肉体的に求めなくていい年代に入りつつあります。本物の求道者になれるのかなとわずかながら思います。

食欲、性欲、アルコールといった、 肉体が求める快楽からいかに脱却できるのか、時期を待っているだけです。自ら脱却しようとは思っていません。楽しまないといけません。

自分自身に対する限りない信頼があります。それに加えて、求めるものに日々努力します。努力していれば、必ず、天が、ご先祖様が見ているんです。

ご先祖様は助けてくれます。

something greatはより困難を与えるように仕向けてきます。次から次に困難はやって来ます。でも、困難が来るほど、逆に神から祝福されているのではないかと思います。これはある意味で、真実なのではないでしょうか。

ブッダ、マホメット、キリストなどの聖人の人生は、苦難の連続です。神から「修行をせよ」と言われているのでしょう。そして最後は死を迎えます。

私は輪廻転生を信じています。そこから脱するのが究極の目標です。解脱して、ブッダの世界に近づいていくということです。

今生の生は、肉体は滅びても、新たな親のもとで生まれて、新たな生を持つ。その繰り返しだと思います。

神は、対照的な、自分とは別の人格神をイメージしがちですが、神は自分の中にあると考えています。

自分は分霊です。神の一部分として、この世に生を受けてきて、究極的に、喜びに向かって自分の行動を律していけばいいことがあるんじゃないかと思います。

肉体のある人間にとって一番の喜びは、悦楽です。その中でも法悦、法縁というものが重要です。七、八年前からそういう心境になり、人間関係が清算されてきました。自分が生き方を変えていくとともに、ごく自然に、次から次へと周りの人が去っていきました。自分から去った面もありますが。これもひとつの因果律です。

 

 

 

 

14 私の国家観

 

 

目に見えない力で、something greatの見えざる力によって、死線を乗り越えてきました。よくここまで生を維持してきたなと思います。肉体は一つの借りものです。生かされているのかな、という感覚は最近特に感じます。

この本を書くにあたって、過去を振り返ってみると、そのことを強烈に感じるようになりました。

神に対する畏敬の念があります。見えないものに対するおそれを伴った感覚であると思います。

師の自観法、内観法が多少なりとも会得できてきて、時々ですが、日本の北海道の札幌のこの地でもって、今、肉体を自在に操ることができて、思考力そのものをも、客観的にある程度見られるようになりました。

日本人に生まれたことが、どれほど幸せであることでしょうか。日本人の中にいて、さんざめきの中で、同じ空気を吸っているという至福の感覚に襲われることがあります。

日本は世界で唯一残った、太古から連綿と続く国家であると考えています。日本人は人がよくて正直で、天が見ています。犯罪の抑止力になったりする倫理観は、世界に冠たるものです。日本にいて暮らしているとわかりません。人間の思考軸、対立軸があって、対比できるものがあってはじめて、自分という社会的存在がわかるようになります。

国家と国家、人と人においてもそうですが、社会性に主眼を置いて考えるなら、日本という国家はすばらしいです。戦後、マッカーサー、GHQによって、徹底的に日本の伝統が破壊されて、日本は悪い国であったという思想がずっと続いてきました。

経済的には成功しましたが、実際は戦前生まれの人たちが復興させたんです。戦前の人が受けた教育の力はすごかったんです。教育勅語の素晴らしさです。現在の日本の繁栄の基礎を作りました。現在、戦前の人たちが少なくなってきています。

超循環型社会であった江戸時代は、エコの面で、今の時代の先端を行っていました。無駄のない社会でした。小さいとき、汲み取り式便所がありました。農家が肥料として使いました。汚物も立派な再生肥料だったんです。また、寺子屋制度があり、識字率は世界の最先端を行っていました。

アメリカは二~三〇〇年の歴史しかありません。日本の歴史をさかのぼっていけば、神話に行きつきます。天照大神の時代からの歴史があります。私は、先の戦争を、大東亜戦争と考えています。民族の独立は、気概と自信の占める割合がとても大きいと思います。日露戦争は世界的なできごとです。人間としてみなされていなかったアジアの有色人種が、初めて白色人種に勝った戦争だったのです。

 

 

 

 

おわりに

 

 

人生における人の要素、これが全てではないかと、振り返ってみると思います。

因果律という厳しい掟の中で、そこにひとつの感動、情、人の情けを感じて涙する、ということに人生の醍醐味があるんではないかと思います。

私にとって、共産主義思想からいかに脱却するか、という葛藤がかなりの困難な部分を占めていたのではないでしょうか。脱却できたなと思うのは、ほんの七、八年前です。それまで理論としてはわかっていましたが、感覚的に人の情けに触れるようになって、過去のおかげさま、現在ある自分が誰のおかげであるか、ということに目覚めてからはじめて、この世に生を受けて、自分は幸せ者だと思うようになりました。

生を受けるのは、ある意味、奇跡だと思います。私だけでなく、あなたもみんなもそうだと思います。

ある数字によれば、人間がこの世に生を受ける確率は、何十兆分の一なんだそうです。生というものをいかに充実したものにするかを、考えなければなりません。

もともとはひとつの大我の中で、一人一人の人間は分霊です。元をただせば一つなのである。その大我から生まれて、その大我に戻っていく。それが生の本質ではないかと思います。

生というものは、今生だけではなく、百年、千年、万年単位の、生と死の繰り返しの中で、大我に返っていきます。

肉体を持っていることが、どれだけありがたいことであるか。修行とは、気づきだと思います。少しずつ、いろんなことに気づいてきました。気づいてなおかつ、過ちを繰り返すという弱い部分も、今では自覚しています。

大学に入ったとき、朝晩ご飯がついて4〇〇〇円という、二畳間の下宿にいました。そこで学校に行かないで、懸命に考えました。自分はどう生きていくべきか。数ヶ月間、考えたんです。

達した結論は、「誠実」でした。

筆で半紙に書いて、貼りました。

左翼思想に毒されていたので、マルクスレーニン主義から言えば、人間が本来持っている個性、情は切り捨てるんです。そうではなく、考えたあげく、「誠実」ということに行きつきました。そこに自分の本質があったのかなと思いました。

そのときが人間的には一番、思考を深めた時代だったのかな。それからだんだん穢れていって、師との出会いに至ります。師との出会いが大きかったです。二十歳そこそこの、人間的には一番すぐれていた時代があり、だんだん落ちこんで三十三、四歳の頃に本屋で気の本と出会い、この本を読んで、自分が漠然と求めていたものが何であるか、明確になりました。

本の中で道場の紹介がありました。東京の道場に行って、師と出会って、一目で見抜かれました。

「あなたに一番足りないのは笑顔なんだ。あなたは不遜である」

当時、事務所では、怒ってばかりいました。顔面神経痛で、うまく表情が作れないときでした。人と人の情のつながり、交感というものは、表情でもっておこなう部分が大きく、言葉ではわからないものも表情によってわかるんです。だから、表情が作れないのはつらいことでした。肉体的障害よりもつらかったです。今でも若干、尾を引いています。

アルコールが入ると解放される部分があり、つらいところを忘れることができます。

気質的なものだと思いますが、常に自分は人に見られているんだという、人に対する警戒心によって、表情までおかしくなります。自分が常に解放されていれば、表情も柔らかいだろうし、笑顔で人と接することができます。

人に負けてはいけないという部分、人に対して自分自身の向上になる部分がある半面、傲慢になってしまうこともあります。自分には何が一番大切か。それは謙虚さではないかと思います。人に対して謙虚であることが、人生の究極の目的と言えるのではないでしょうか。自分が一歩下がることです。私の生き方からすると、非常に難しい生き方です。

本来であれば、劣等感の中で生きなければならないところを、劣等感をばねにして今まで生きてきました。劣等感がなかったら、今の自分はないのではないでしょうか。劣等感に感謝する部分があります。

最近、時々、よく頑張ってきたなと、自分で自分をほめてあげたい部分もあります。自分は恵まれています。いい人、悪い人も含めて、人に恵まれました。物事の尺度は、善だけでは済まされません。悪の中にいるだけでもだめです。両方あって、自分の立ち位置がわかります。比較衡量の中で、自分の立ち位置を判断します。自覚、目覚めの原点です。

清濁併せ呑むと言いますが、裏切られた経験がなければ、本当の人のありがたみはわかりません。

裏切られたことはありません。ないなんてことはありえませんが、性善説なので、気づかなかったのかもしれません。これは、自分でかなり評価していいのではないかと思うところです。

人間とは弱いもので、精神の平安をずっと求めてきましたが、なかなか得られませんでした。逆に、平安を拒否していたような気がします。常に自分を瀬戸際、崖っぷちに置いていないと、行動力が起きてきません。

今の自分を肯定するようになったのは、五、六年前からです。

生、人生を楽しむことが悪いことじゃないんだよ、と思えるようになりました。かつては困難な茨の道を歩く求道者が理想でした。幸せな時代は居心地が悪いんです。

左翼思想もあります。意識的、無意識的にせよ、本来の人のため、というのではなく、人民一般のため、ということを考えてしまいます。

自分で稼げるようになったときが、一番、居心地が悪かったんです。茨の道、困難な道が長かったです。それに慣れてしまいました。居心地がいいんです。

その反動が出て、いい時代はむさぼってしまいます。人間の根源的な無明から来るものです。その一番の表れが、むさぼりです。どんな場合にもあてはまります。快楽を、眠りを、食をむさぼります。そこから唯一、抜け出すことができたのは、ひとつは年齢のせい、肉体の衰えのせいです。衰えは必ずしも否定すべきことじゃありません。無明の世界から抜け出す契機となります。

むさぼりの構造が肉体的についていけなくて、ほどほどというところに着地します。

肉体からくるもので、精神に作用を及ぼします。

衰えは素晴らしい。人間バンザイ。まだ若いんだと、それを否定する自分もいます。中村酵素のカイカとプラサーダの二つをずっと飲んできて、肉体的にはかなり自信があります。肌なんかすべすべです。この状態で自然に老いていきたいものです。

還暦を過ぎて、今六十二歳ですが、まだいろんな出会いがあります。一言で言って、人間バンザイです。行徳先生から教えてもらった、素晴らしい言葉です。人生捨てたものじゃありません。

肉体を持っていることが、修行にとって、一番、素晴らしいこと、より大我に近づけることです。肉体が滅びると、精神、スピリチュアルなものだけだと、なかなか修行の成果が表れにくいものです。

肉体を持っているときは、感覚というものがあります。それを保持しているということが、どれだけ素晴らしいことか。

自分の場合、師との出会いがあったので、むさぼっているとき、むさぼっている自分をわかっているか、その一点が重要であることを知りました。

あの世とこの世、キリスト教で言う地獄と天国とかと言いますが、それはすべて自分の精神が、自分の心が作り出しているものです。そこに気づいていれば、地獄の様相が現れても、瞬時に消えるのです。

今語っている、今の自分をぼーっと見ているだけでいいんです。これが一番の修行法です。楽しいときも、悲しい、つらい、苦しいときも、ぼーっと自分を見ています。苦しいときは、徹底して苦しめばいいんです。落ちるところまで落ちていきます。際限なく落ちることはありません。どこかにどん底はあり、また上向いていきます。

大きく伸びようという場合は、大きく膝を曲げて、大きく沈みます。人生も同じです。求道者として、「我に七難八苦、艱難辛苦を与えたまえ」と願います。それが大きく伸びる、幸せな人生を送れる、一つの契機になるのではないでしょうか。

 

この世は因果ですね。因があって、果をはたす。どれだけ果をはたせるかで、次の生が決まります。ひとつの生の中で、果をはたしてしまえば、終わりです。また新たな因を作らなければなりません。ご先祖様の分を含めた果を、五、六年前までにある程度はたしたのかな。毎日、因は作っていますが、いきなりその感覚に襲われたんです。

おじさんおばさんはみな、九十歳以上で亡くなりました。感覚的に私は百まで生きるような気がします。これからが、私の本当の青春だと思っています。

不遜かも知れませんが、清算といいますか、人間関係もだいぶ整理がつきました。師であるBE会(ベーシック・エンカウンター)行徳先生、感性を揺さぶる会です。こことはいい関係を保っています。その関係で今、この本を書くことになりました。

これから青春を謳歌しようと思います。

人間バンザイ。

この言葉で終えようと思います。

 

 

 

 

 

【著者略歴】

坂東 守

1951年 夕張市で出生

札幌市立栄小学校、北園小学校、北栄中学、札幌北高校を経て

1970年 関西大学英文科入学

同大学を中退後、工場労働者を4年間、日雇いアルバイト、中華料理屋のホール、パチンコ店の店員、米屋の店員を経て

1981年 司法書士試験合格

1982年 司法書士坂東守事務所開業

2006年 簡裁訴訟代理認定

2007年 司法書士法人坂東法務事務所設立

2012年 1月、不動産売買の「サムライエステート株式会社」設立。代表取締役に就任

 

 

 

坂東守の激白録

 

平成二十六年三月一日 第一刷発行

 

著 者―坂東守

 

編集協力―横松心平

 

発行所―株式会社 柏艪舎

北海道札幌市中央区北二条西三丁目一番

電話=〇一一‐二一九‐一二一一

ファックス=〇一一‐二一九‐一二一〇

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